教室員の風景

2010年8月

滋賀医科大学産科学婦人科学講座の清水良彦です。産婦人科医師として丸13年が経過しました。先代教授の野田洋一先生、現教授の村上節先生から産婦人科医として成長するため本当に多くのチャンスを頂いてきました。医学部を卒業後、どのような教育システム、教育機関で修練を受けてきたのか、これから入局してくる先生の参考に書いてみたいと思います。
最初の2年間は大学での研修でした。産婦人科医としての基本手技、心構え、論理的な考え方ができるように毎日ミーティングでたたき込まれました。この2年間があったからこそ、以降の研修病院でそれなりの評価を頂くことができたと思っています。いわゆる刷り込みの時期と思いますが、多くの優秀な先輩方からご指導いただけることが大学ならではのメリットと思います。

次の2年間は宇都宮済生会病院という野戦病院で過ごしました。野田先生のお考えである、よその釜の飯を食って視野を広げてこい、というご指導のもと、関東の北の外れの栃木県に赴任しました。東北弁になれるまで少し時間がかかりました。お産が月に100以上あり、自分が担当する婦人科手術が毎日あり、救急もまず最初に自分が診るという、症例数をこなすには最適の病院でした。大学で築いた基礎がこの病院で大きく伸ばせたと思います。ゴルフを覚えたのもこの時期でした。栃木には数多くの有名なゴルフ場がありました。朝5時から9ホールこなして、温泉に入ってから出勤するということもよくしていました。ゴルフで社交性がひろがり、同じ病院内の他科の先生と仲良くなることができました。

5年目からは埼玉医大総合医療センターの胎児母胎管理センターで周産期を集中的に学びました。母胎集中治療室が15床以上、新生児集中治療室が30床以上あったかと記憶しています。最重症の母胎、胎児を管理する部門でこちらの神経がまいってしまいそうなぐらい毎日が緊張の連続でした。東京に近かったので先輩によく連れて行ってもらいました。東京は本当に誘惑が多い町です。あまり長くいると良くないですね。

次の4年間は大学院生、研究者として毎日試験管を振っていました。臨床は失敗が許されない世界ですが、実験は毎日が失敗の連続で、前に進まないことにうんざりもしました。産婦人科とは全く関係のない実験内容でしたが、生物学という医療の最も根底にある部分を学んだことは今の自分の診療に大きなプラスになっています。また最近の医学論文は生物学的な実験手技を理解していないと読めないものが多く、それを読むことができるようになったのも大学院を卒業した大きな財産だと思っています。論文を読むスピード、理解するスピード、書く能力ももちろん身につきました。いつも若い先生に話していることですがチャンスがあれば是非大学院に進学して研究をしてください。医者人生の40年のうちたかだか4年間ですから、研究に興味がなくても、将来の臨床に役立つことを信じて経験してみてください。

大学院卒業後は甲賀病院に赴任して1人医長を経験しました。今まではすぐに相談できる先輩がいましたが、患者さんの診断、治療まですべて自分で解決しなければいけないというシチュエーションで、大変でもありましたがやりがいもありました。診療はもちろんのことですが、病院院長との相談や事務との交渉もすべて自分でおこなったことは医療人としての成長を得られた時期でした。

その後、かねてから希望していた生殖医療(不妊治療)に本格的に取り組むチャンスを頂き、大学に戻ってきて現在に至ります。大学の生殖チームに属して約2年半が経過しました。妊娠していただいた患者様はチームとして200人を超えましたが、残念ながら患者さんの期待に応えることができない場合ももちろんありました。最近、患者様が求めていることは何か?ということについて深く考えるようになりました。当然、自分のセクションの患者様は妊娠という結果を期待されるわけですが、はたしてそれだけはないように感じています。まだ言語化できるようなすっきりとした答えは得られていないのですが・・・

さて、現在のプライベートですが趣味は競技自転車で、毎年ロードレースに出ていました。ツールドフランスをニュース等でみられた方もおられると思いますが、あの競技です。もちろん小生のレベルは底辺でお遊び程度ですが、どのように表現すべきでしょうか、友人と集団で走るときの高揚感は何ともいえないものがあり、虜になってしまいました。しかし残念ながら頸椎ヘルニアを発症してしまい、通常のロードタイプの自転車には乗れなくなってしまいました。写真にあるのはリカンベントといって、座って乗るタイプのものです。日本の道路事情にあわないので日本ではお目にかかることは少ないですが欧州ではよく走っているようです。首に優しい自転車で最近はこの自転車を愛用しています。湖岸でこの自転車が走っているのをみかけたら小生かもしれません。

このような13年でした。当面の目標は滋賀にまだ4人しかいない内視鏡専門医と生殖医療専門医を取得することです。大学ならではの難治症例を一つ一つ解決していくこと、目の前の問題をこなしていくことが実力につながっていくと信じて。